《 事例研究の出典 》
下記でご紹介する3つの事例研究は、書籍【「性能発注方式」発注書制作活用実践法】の第2章からの抜粋を再構成したものです。ちなみに、【「性能発注方式」発注書制作活用実践法】は、性能発注方式について真正面から捉えた我が国唯一の書籍です。
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零戦の大成功と後継機「烈風」の大失敗
プロジェクトの全体最適化 成功と失敗の事例研究(1)
1 零戦は、20世紀の世界地図を塗り替えた純国産の工業製品
太平洋戦争の序盤から中盤にかけて、欧米の新鋭戦闘機をも圧倒することができた零戦ですが、その秘訣は、三つ巴のトレードオフ関係にある空戦性能・最大速力・航続力において、並外れた高性能を実現できたところにありました。
零戦の開発に向けて、発注者(旧日本海軍)が、受注者(三菱重工業)に求めたのは、実現が決して容易ではないけれども不可能ではない高性能でした。零戦は、旧日本海軍が作成した1枚の計画要求書(要求水準書と同義)に基づき、三菱重工業が研究開発・設計・製造を行っています。つまり、零戦は、性能発注方式により、旧日本海軍から発注されていたのです。
2 旧日本海軍の軍用機発注方法は、仕様発注方式と性能発注方式の二種類
(1) 仕様発注方式
旧日本海軍における軍用機の仕様発注方式についてですが、海軍航空技術廠の技術将校(大学の航空工学科等出身)が作成した仕様書(数千枚に及ぶ詳細な設計図面)に基づき、航空機メーカーに製造を委託するものでした。しかし、このような仕様発注方式は、詳細な設計図面の作成に大変な時間と労力を要する上に、次に記載するデメリットがあったため、旧日本海軍ではマイナーな発注方法でした。
仕様発注方式では、受注した航空機メーカーは、旧日本海軍が示した仕様書の設計図面どおりに製造することが求められました。このため、受注メーカーが創意工夫を凝らすことにより性能向上を図る余地はほとんどありませんでした。また、旧日本海軍が求めようとした性能を実現する責任は、仕様書の設計図面を作成した旧日本海軍自らが負うことになりました。見方を変えれば、仕様発注方式では、製造にかかるコスト面だけを重視する発注となりがちであり、受注メーカーによるイノベーションはほとんど期待できないと言えます。ちなみに、旧日本海軍の仕様発注方式に見られるこのようなデメリットは、今日の我が国の官公庁の仕様発注方式でも同様に見られるところです。
(2) 性能発注方式
旧日本海軍における軍用機の性能発注方式についてですが、開発しようとする軍用機に求める「機能と性能」についての議論を海軍部内の開発会議で重ねた上で、「機能と性能の要求要件」を1枚にまとめ上げた計画要求書を旧日本海軍が作成して、この計画要求書に基づき複数候補の中から選定した航空機メーカーに研究開発・設計・製造を委託するものでした。このような性能発注方式は、次に記載するメリットがあったため旧日本海軍ではメジャーな発注方法であり、零戦をはじめ、旧日本海軍の名機は性能発注方式で産み出されていました。
性能発注方式では、計画要求書に示された「機能と性能の要求要件」を達成する責任は、詳細設計を行う航空機メーカーが負うことになったのですが、各要求要件の達成に向けて、航空機メーカーは、研究開発・設計・製造のどの段階でも創意工夫を存分に凝らすことができました。このような創意工夫こそ、イノベーション(技術革新)の源です。それゆえ、旧日本海軍の性能発注方式は、軍用機におけるイノベーションの促進に大いに貢献したと言えます。このことから、旧日本海軍の性能発注方式は、今日の我が国におけるイノベーションの促進に向けて、特に、オープンイノベーションの活性化に向けて、大いに参考となるものです。
ところで、このような性能発注方式を成功させるには、発注者である旧日本海軍も大きな役割を果たす必要がありました。つまり、旧日本海軍は、軍用機に関する最先端の技術動向を調べ上げて、現場が抱える課題も並行して調べ上げて、求めようとする性能要件間に生ずるトレードオフ関係についてよく勘案した上で、実現が決して容易ではないけれども不可能ではないハイレベルの「機能と性能の要求要件」を見極めて、受注者が設計と製造を行う上で必要十分となるように各要求要件を計画要求書にリストアップする、といった、発注者としての一連の役割を果たす必要があったのです。要するに、シーズ(最先端の技術動向)とニーズ(現場が抱える課題)のベストマッチング(課題解決により期待される効果の最大化)に向けて、発注者として真剣に取り組まなければならなかったということです。見方を変えれば、性能発注方式の成否を決する鍵は、発注者が握っていたと言えます。
3 零戦が成功した秘訣
(1) 零戦の計画要求書に掲げられた13の要求項目
【出典は戦史叢書95海軍航空概史】
1.用途:掩護戦闘機として敵軽戦闘機より優秀な空戦性能を備え、要撃戦闘機として敵の攻撃機を捕捉撃滅しうるもの
2.最大速力:高度4000mで270ノット以上
3.上昇力:高度3000mまで3分30秒以内
4.航続力:正規状態、公称馬力で1.2乃至1.5時間(高度3000m)/過荷重状態、落下増槽をつけて高度3000mを公称馬力で1.5時間乃至2.0時間、巡航速力で6時間以上
5.離陸滑走距離:風速12m/秒で70m以下
6.着陸速度:58ノット以下
7.滑走降下率:3.5m/秒乃至4m/秒
8.空戦性能:九六式二号艦戦一型に劣らぬこと
9.銃装:20mm機銃2挺、7.7㎜機銃2挺、九八式射爆照準器
10.爆装:60㎏爆弾又は30㎏2発
11.無線機:九六式空一号無線電話機、ク式三号無線帰投装置
12.その他の装置:酸素吸入装置、消化装置など
13.引き起こし強度:荷重倍数7、安全率1.8
(2) 零戦の計画要求書は、シーズとニーズをベストマッチングした結晶
上記(1)に掲示した13の要求項目のリストは、旧日本海軍が作成した零戦の計画要求書です。シーズとニーズをベストマッチングした結晶とも言えるこのような計画要求書が無ければ、欧米の新鋭戦闘機をも圧倒した零戦は出現しなかったであろうと推察されます。
ところで、このような計画要求書を作成したプロセスについてですが、旧日本海軍は、部内の開発会議での議論を通じて、最先端の技術動向(シーズ)と現場が抱える課題(ニーズ)を踏まえ、性能要件間に生ずる三つ巴のトレードオフ関係(空戦性能・最大速力・航続力)を十分に勘案(シーズとニーズのベストマッチング)することにより、極めてハイレベルだけれども実現が不可能ではない「機能と性能の要求要件」を必要十分にリストアップして、計画要求書(1枚)にまとめ上げたのです。
(3) 零戦の計画要求書に学ぶべき点
零戦が成功した秘訣は、三つ巴のトレードオフ関係にある空戦性能・最大速力・航続力において、並外れた高性能を実現したところにあります。この観点から、零戦の計画要求書に学ぶべき点として、次の五項目が特に重要となります。
① 航空機メーカーが詳細設計を行う上で必要十分となる機能と性能の要求要件が、具体的な数値目標として掲げられている。
② 発動機出力、翼面積、機体重量、機体寸法など、詳細設計の範疇については一切言及していない。
③ 計画要求書の作成時点では実現が極めて困難と思われるほどの、世界最高水準の性能を求めている。
④ 計画要求書の「2. 最大速力」、「4. 航続力」及び「8. 空戦性能」については、三つ巴のトレードオフ関係にあることをよく踏まえて、実現が不可能ではないぎりぎりの性能要件を掲げている。
⑤ 数値目標を掲げることが困難な「8. 空戦性能」については、計画要求書の作成時点において空戦性能に最も優れていた国産機を例示することにより、性能要件を具体的に示している。
(4) 理想的な計画要求書を目標としたトップダウンによる全体最適化に成功
旧日本海軍は、理想的な計画要求書(1枚)で航空機メーカー(三菱重工業)に、零戦の研究開発・設計・製造を一括して委託しました。これを受けて、三菱重工業は、零戦の計画要求書に掲げられた極めてハイレベルな「機能と性能の要求要件」の全てを満たす(つまり、全体最適化する)ために、数十名の設計陣を率いた設計主務によるトップダウンで全体最適化を図る開発体制を整えました。そして、研究開発・設計・製造を一貫して実施する中で、全体最適化に向けて創意工夫を存分に凝らしたのです。このような創意工夫こそ、イノベーション(技術革新)の源です。それゆえ、出来上がった零戦には、世界初の革新的技術が随所に盛り込まれていました。また、このような革新的技術が、極めてハイレベルな「機能と性能の要求要件」の全てを満たす(つまり、全体最適化する)ことを可能としたのです。このことから、零戦は、旧日本海軍が作成した理想的な計画要求書があったからこそ、トップダウンによる全体最適化に向けて、三菱重工業が創意工夫を存分に凝らすことができた賜物であったと言えます。
4 零戦の後継機「烈風」の開発に旧日本海軍は大失敗
旧日本海軍は、太平洋戦争が中盤に差し掛かった頃、零戦の弱点を解消するとともに零戦を上回る性能を備えた後継機「烈風」の開発を計画し、その研究開発・設計・製造については、零戦と同様の計画要求書で零戦と同じ航空機メーカー(三菱重工業)に委託しました。
ところが、空戦性能を重視した旧日本海軍は、エンジン馬力と翼面荷重について、設計数値を三菱重工業に指示してしまい、これを撤回しようとはしませんでした。つまり、旧日本海軍は、烈風の設計に深く立ち入ってしまったのです。
このため、三菱重工業では、設計の自由度が大きく損なわれた結果、計画要求書の要求要件の全てを満たす設計が極めて困難となり、烈風の開発はかなり長期化しました。さらに悪いことに、三菱重工業が試作した烈風は、零戦の性能をも下回ってしまったのです。このような結果を受けて、旧日本海軍は、烈風の開発計画の破棄を決定してしまいました。
このことは、空戦性能についての旧日本海軍からの部分最適化の要求が、三菱重工業による全体最適化(つまり、計画要求書の要求要件の全てを満たすこと)を破綻させてしまったと言えます。
5 零戦の成功と後継機「烈風」の失敗が残した教訓
(1) 発注者は、受注者に委ねるべき設計に立ち入ってはならない
零戦と烈風の開発は、旧日本海軍が、同じ航空機メーカー(三菱重工業)に、同様の計画要求書で委託しています。つまり、開発のスキーム(枠組み)については、零戦と烈風は全く同じであったと言えます。
しかし、零戦の開発には大成功したのですが、烈風の開発には大失敗し、旧日本海軍は烈風の開発計画を破棄してしまいました。このように大成功と大失敗を分けたのは、実は単純な要因であったのです。それは、受注者(三菱重工業)に委ねるべき設計内容に、発注者(旧日本海軍)が口出ししたか否かでした。
つまり、零戦は、旧日本海軍が設計に口出ししなかったため、計画要求書の要求要件全ての達成(全体最適化)に向けて、三菱重工業は創意工夫を存分に凝らすことができました。他方、烈風は、空戦性能の部分最適化に係る設計に旧日本海軍が口出ししたため、三菱重工業は設計上の大きな制約を受けて全体最適化が困難となり、開発が長期化した上に、計画要求書の要求要件の全てを満たすことができなかったのです。
ところで、ここで一つ問題となるのは、烈風の開発失敗の要因が、旧日本海軍による設計への口出しにあったのではなく、三菱重工業に烈風開発の技術力が欠けていたためではないのか、といった疑問です。実際のところ、三菱重工業は、烈風の開発計画が破棄された後、次の(2)に記載のとおり、烈風の独自開発を継続して開発に成功しているので、前記の疑問は解消されます。
(2) 全体最適化の成否が国運をも左右した。
烈風の開発計画が破棄され、もはや、旧日本海軍からの設計への口出しが無くなったため、三菱重工業は、烈風の独自開発を継続する中で存分に創意工夫を凝らすことができました。その結果、短期間で試作することができた烈風は、驚くべきことに、旧日本海軍の計画要求書の要求要件の全てを満たしていた(つまり、全体最適化に成功した)のです。
このことから、旧日本海軍の開発計画に基づく烈風の開発が失敗した要因は、空戦性能の部分最適化に係る設計に旧日本海軍が口出ししたことに他ならないのは明らかです。仮に、旧日本海軍が烈風の設計に口出ししなかったならば、烈風は零戦の後継機として、終戦の直前ではなく終戦の前年に制式化され、活躍の機会にも恵まれたのではないかと推察されます。それゆえ、零戦の成功と後継機「烈風」の開発失敗が残した大きな教訓は、開発プロセスにおける全体最適化の成否が国運をも左右した、ということであり、発注者は受注者に委ねるべき設計には口出ししてはならない、ということです。
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仕様発注方式で失敗・破綻し、
性能発注方式で復活・成功した新国立競技場整備事業
プロジェクトの全体最適化 成功と失敗の事例研究(2)
1 2015年7月17日、新国立競技場整備計画が白紙撤回
2012年に実施した国際デザインコンクールを起点とする新国立競技場整備計画は、「設計・施工の分離の原則」に則った仕様発注方式による整備に向けて、2年半もの設計委託期間と60億円余りの設計委託費を費やした挙句に、工事費試算額の高騰が引き金となり、2015年7月17日に安倍首相により計画全体が白紙撤回され破綻しました。
この破綻の主因は、三つ巴のトレードオフ関係(彼方を立てれば此方が立たなくなるといった相反関係)にあるスペック・工事費・工期について、全体最適化に失敗したことに尽きます。ここで用いられた仕様発注方式は、設計と施工それぞれの段階において部分最適化を求めているのと同じであるため、全体最適化には本質的に向いていないのです。
2 白紙撤回された新国立競技場整備計画、工事費試算額の推移
2012年秋に開催された国際デザインコンクールでは、英国の建築デザイナー事務所による「斬新なデザイン」の作品が選定されました。この時点でのことですが、新国立競技場整備の発注者である独立行政法人日本スポーツ振興センターは、工事費として約1300億円(工期は42ヶ月)を予定していたのですが、英国の建築デザイナー事務所の工事費見積額は約900億円でした。
ところが、フレームワーク設計受託者が2013年7月に試算した工事費は、約3500億円に上るものでした。この試算額は、「斬新なデザイン」をそのまま用いたフルスペックの場合、つまり、開閉式屋根を備えた全天候型で音楽コンサートも開催できる多目的施設とした場合の試算額です。
そこで、発注者は工事費を抑えるため、スペック(開閉式屋根を備えた全天候型で音楽コンサートも開催できる多目的施設)はそのままとして、デザインを変更し規模を縮小したのです。その結果、フレームワーク設計受託者が2013年11月に再度試算した工事費は、約1800億円にまで減少しました。
しかし、基本設計受託者が2014年5月に試算した工事費は、約2500億円に増大してしまいました。そこで、発注者が工事費の抑制を強く主張した結果、今度は実施設計受託者が2014年11月に試算した工事費は、約2100億円に若干減少しました。ところが、この頃既に発注者は、実施設計受託者による実施設計内容と設計価格(約2100億円に抑制させた価格)に基づく施工入札の不調を危惧するようになっていたのです。つまり、2014年秋の時点で、仕様発注方式(設計と施工を単純に分離発注する方式)の大きなデメリットが露呈しつつあったと言えます。
そこで、2014年10月のことですが、発注者はECI方式を採用することにしたのです。ECI(Early Contractor Involvement)方式とは、施工業者が持つ施工上のノウハウを実施設計に反映させるために、発注者が施工予定業者を予め選定して契約を結ぶことにより、発注者が別途選定した実施設計受託業者に施工予定業者を技術協力させる方式です。それゆえ、ECI方式は、設計と施工の分離発注方式、つまり、仕様発注方式の一類型であると言えます。
発注者は、ECI方式による施工対象をスタンド工区と屋根工区に分割して、それぞれの施工予定業者を公募型プロポーザル方式で募り、スタンド工区はT建設、屋根工区はT工務店を選定しました。そして、2014年12月に、発注者は、施工予定業者との技術協力業務委託契約を、T建設及びT工務店とそれぞれ締結したのです。ここで、ECI方式による施工対象をスタンド工区と屋根工区に分割したのは、それぞれを得意とする施工予定業者を選定することにより、工事費と工期の縮減を図ろうとしたためでした。
ところが、ECI方式で選定した施工予定業者2社が2015年1月に試算した工事費(スタンド工区と屋根工区の合計工事費)は、何と約3100億円であり、しかも、工期は66ヶ月を要する結果となりました。この試算結果に驚いた発注者は、工事費と工期をなんとしても縮減するため、開閉式屋根等の設置は、オリンピック・パラリンピック終了後に先送りすることとしました。ちなみに、このような先送りでは足場を組むなどの仮設工事が再度必要となるので、全体の工事費の更なる膨張は避けられないところとなります。
しかし、施工予定業者2社が2015年6月に再度試算した工事費(開閉式屋根等の設置を先送りしたスタンド工区と屋根工区の合計工事費)は、約2500億円にしか減額することができず、工期も44ヶ月を要する結果となりました。このような結果を受けて、2015年7月17日に、新国立競技場整備計画全体が安倍首相により白紙撤回され破綻したのです。
3 新国立競技場整備計画が破綻した原因
(1) 仕様発注方式の大きなデメリットが露呈
仕様発注方式の主眼は、設計発注段階で競争原理を働かせて、施工発注段階でも競争原理を働かせるところにあります。つまり、設計と施工それぞれの段階ごとの部分最適化です。
ここで、標準化された工法や熟して枯れた工法が利用できる場合(つまり、誰がやっても同じ結果が出せる場合)には、設計発注段階と施工発注段階のそれぞれにおいて、価格面の競争原理を働かせることは可能です。
しかし、標準化されていない最先端技術や施工者による施工上の創意工夫が必要な場合には、施工者が有するノウハウを設計に反映させる(つまり、設計時に、価格面に加えて技術面の競争原理も働かせる)必要があります。このような点こそ、新国立競技場整備計画の終盤において、仕様発注方式(設計と施工を単純に分離発注する方式)の大きなデメリット(誰がやっても同じ結果が出せる場合にしか使えない方式であること)が露呈した際に、発注者が急遽、ECI方式を用いることにした最大の理由です。
(2) スペック・工事費・工期の全体最適化に失敗
新国立競技場整備計画では、スペック・工事費・工期は、三つ巴のトレードオフ関係、つまり、彼方を立てれば此方が立たなくなるといった相反関係にあります。このため、工事費と工期を許容範囲内に収めるには、スペックの抜本的な見直しが必要となります。このことから、このような整備計画を成功させるには、計画全体を司るプロジェクトマネジメントのトップダウンにより、スペック・工事費・工期の全体最適化を図ることが絶対に欠かせないところとなるのです。
しかし、実際には、発注者はスペックの抜本的な見直しを行うことなく、設計方法の見直しによる工事費の縮減だけを2年以上にわたって追求し続けました。このため、工期の余裕が失われていった結果、トレードオフ関係にある工事費が増大していったのです。つまり、工事費の部分最適化だけを追求した結果、整備計画全体が破綻してしまったと言えます。
このような破綻は、「整備計画全体を司るプロジェクトマネジメント」の欠如に由来します。驚くべきことに、発注者側には、整備計画の全体を実質的に司るプロジェクトマネージャがどこにもいなかったのです。巨大プロジェクトを誰一人として責任を持ってマネジメントしようとはせず、巨大プロジェクトを「組織対応」で運営しようとする、悪しき無責任体質がここでも露呈してしまいました。
これでは、オリンピックとは何の関係もない音楽コンサートを雨天でも開催可能とする過大なスペックを、オリンピックの前年のラグビーワールドカップに間に合わせるべく短期間の工期で、しかも、工事費が過大とならないようにまとめ上げる(つまり、全体最適化する)ことなど、そもそも不可能です。実際に破綻するまで、このことに誰も気付くことができなかったのは、新国立競技場整備計画という巨大プロジェクトを性能発注方式ではなく、仕様発注方式で運営したためです。なぜならば、仕様発注方式の本質はボトムアップによる部分最適化であり、性能発注方式の本質はトップダウンによる全体最適化であるからです。
(3) 切札としたECI方式でも、工区分割による部分最適化を追求
新国立競技場整備計画の終盤において、実施設計受託者による実施設計内容及び設計価格(約2100億円)に基づく施工入札の不調が危惧されたため、発注者は急遽、ECI(Early Contractor Involvement)方式を採用することにしたのですが、その一番の目的は、ECI方式で施工業者が持つ施工上のノウハウを実施設計に反映させることにより、工事費や工期の縮減を図ろうとするところにありました。
ところが、実際にECI方式を採用した結果は、工事費や工期の縮減どころか、真逆の結果(工事費試算額は約3100億円に、工期は66ヶ月に、いずれも大幅に増大)を招いてしまっています。
発注者は、ECI方式による施工対象をスタンド工区と屋根工区に分割し、公募型プロポーザル方式により各工区の施工予定業者を選定しました。ここで、工区を分割した目的ですが、分割によりそれぞれの工区を得意とする施工業者を選定できるとして、工事費と工期の縮減を図ろうとしたところにあります。
しかし、これはまさに、ボトムアップによる部分最適化の捉え方そのものでした。その結果として、実際には工区を分割したことにより、施工上のリスク要因が増大してしまったのです。つまり、スタンド工区と屋根工区は、互いに他の工区の影響を受けない「それぞれが独立した工区」ではなく、スタンド工区の作業の遅れが屋根工区の作業の遅れに繋がるなど、「互いに依存する関係にある工区」だったのです。このような工区ごとの部分最適化の積み上げでは、全体最適化は達成できないのです。また、工区間の調整は発注者の仕事となるなど、工期全体の短縮には明らかにマイナスでした。このことから、ECI方式を用いる場合でも、トップダウンによる全体最適化の視点が欠かせないと言えます。
4 性能発注方式で復活した新国立競技場整備事業
(1) 復活の鍵は、改正品確法に規定された性能発注方式
2005年に制定された品確法(公共工事の品質確保の促進に関する法律)は、2014年6月の改正により、「多様な入札及び契約の方法」が追加され、設計と施工を一括して発注する方式、つまり、性能発注方式が法律で裏付けられました。具体的には、この改正で品確法の第18条に新たに規定された「技術提案の審査及び価格等の交渉による方式」は、性能発注方式の一類型です。
さて、2015年7月17日に白紙撤回され破綻した新国立競技場整備計画は、その1年ほど前に改正品確法に規定された「技術提案の審査及び価格等の交渉による方式」をそのまま用いることにより、白紙撤回後の1ヶ月余りで見事に復活しました。改正品確法で性能発注方式が法的に裏付けられていたことが、我が国にとって幸いであったと言えます。
(2) 復活に向けた動きは極めて迅速
新国立競技場整備計画が白紙撤回された翌月の2015年8月28日に、「新国立競技場整備計画再検討のための関係閣僚会議(第4回)」が開催され、この場で「新国立競技場の整備計画」(A4版で全7頁)が決定されました。
これを受けて、2015年9月1日に「新国立競技場整備事業 業務要求水準書」(A4版で全56頁)を公開して、受注希望業者の公募手続きを開始しています。この「業務要求水準書」は、外部委託せずに発注者側が短期間(約1ヶ月)で作成したものでした。また、この「業務要求水準書」では、受注者に実現を求める「機能と性能の要求要件」について、受注者に委ねるべき設計には立ち入ることなく、受注者が設計と施工を行う上で必要十分となるよう、分かりやすく記載されていました。さらに、この「業務要求水準書」では、受注者側の総括代理人が、新国立競技場整備事業全体のプロジェクトマネジメントを統括実施すること、つまり、プロジェクトマネージャとしてトップダウンで事業運営に当たることを求めていました。このようなところに、性能発注方式の大きなメリットが具現していたと言えます。
そして、2015年9月1日に開始された前記の公募には、二つのJV(共同企業体)が応募し、各JVから提出された技術提案の審査を経て、2015年暮までに受注業者が選定されたのです。
(3) 2019年11月30日、新国立競技場が滞り無く完成
受注業者を選定したその翌年(2016年)には実施設計を開始し、さらにその翌年(2017年)には施工を開始することができました。そして、2019年11月30日に、当初予定した工期(2019年11月末)と工事費(約1500億円)で、新国立競技場は何の滞りも無く完成したのです。受注者に実現を求める「機能と性能の要求要件」を、受注者に委ねるべき設計には立ち入ることなく、受注者が設計と施工を行う上で必要十分となるよう、分かりやすく記載した「理想的な業務要求水準書」を作成した上で、デザイン・設計・施工を一括して実施させる性能発注方式を用いたからこそ、スペック・工事費・工期の全体最適化に成功した結果であると言えます。
(4) 新国立競技場整備事業成功の歴史的意義
我が国では、これまで長年にわたって、仕様発注方式による失敗を、仕様発注方式の更なる工夫や改善により克服しようとしてきましたが、克服できた事例はあまり見られないところです。そのような中で、新国立競技場整備事業は、仕様発注方式による失敗を、性能発注方式に切り替えることにより見事に克服できた初のケースと言えます。そこで、新国立競技場整備事業を振り返ってみれば、仕様発注方式のデメリットと性能発注方式のメリットが歴然としてきます。それゆえ、新国立競技場が完成した2019年11月30日を契機として、これからの公設公営の公共事業は、仕様発注方式から性能発注方式へのパラダイムシフトが望まれるところです。
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X線天文衛星「ひとみ」の大失敗と
小惑星探査機「初代はやぶさ」の大成功
プロジェクトの全体最適化 成功と失敗の事例研究(3)
1 X線天文衛星「ひとみ」は、国際協力ミッション
宇宙からのX線は、大気に吸収されるため衛星による観測が欠かせません。そこで、1979年以降、我が国はこれまでに歴代5機のX線天文衛星を打ち上げて、グローバルなX線天体観測を支えてきました。いわば、X線天文衛星は我が国のお家芸です。
2016年に宇宙航空研究開発機構(JAXA)の宇宙科学研究所が打ち上げたX線天文衛星「ひとみ」は、2005年に打ち上げ2015年まで運用したX線天文衛星「すざく」の後継機でした。「ひとみ」は、重量約2.7tの大型衛星で、「すざく」の数十倍の性能の観測機器を搭載していました。
また、「ひとみ」は、米航空宇宙局、欧州宇宙機関等が参加する国際協力ミッションであり、国内外51の大学や研究機関から約180名の研究者がこのミッションに参加していました。ちなみに、このミッションにおける我が国の負担額は、衛星打ち上げを含めて約310億円でした。
2 「ひとみ」は、打ち上げに成功した1ヶ月後にバラバラに分解
X線天文衛星「ひとみ」は、2016年2月17日に、衛星軌道への打ち上げに成功しました。
そして、2016年2月29日に、衛星本体の基本機能確認や、ソーラーパネルと光学ベンチの伸展を行う 「クリティカルフェーズ」 が完了しました。ところが、ソーラーパネルと光学ベンチの伸展に伴い衛星の重心が移動したことに対応するため、姿勢変更系のパラメータデータを変更した際に、データを誤入力(絶対値に変更すべき数値をマイナス値のままとした)してしまいました。
そして迎えた運命の2016年3月26日、全ての観測機器を立ち上げる「初期機能確認フェーズ」の期間中であるにも関わらず、本格的なX線天体観測に取り掛かっていた最中に、姿勢測定系のバグが原因で衛星異常回転が発生して、前記の姿勢変更系のパラメータデータの誤入力が原因で異常回転を猛烈に加速した結果、その遠心力で「ひとみ」はバラバラに分解してしまったのです。
3 「ひとみ」がバラバラに分解した原因は、ソフトウェアのバグとデータの誤入力
(1) 姿勢測定系のソフトウェアのバグによる異常回転の開始
「初期機能確認フェーズ」の期間中、つまり、「ひとみ」に搭載した各種観測機器を立ち上げてその機能確認を行うためのテスト期間中に、「ひとみ」は既に本格的なX線天体観測を開始していました。その中で、2016年3月26日、観測対象を変更しようとして「ひとみ」の姿勢変更を行った際に、姿勢測定系のソフトウェアのバグにより、実際には回転していない「ひとみ」がゆっくりと回転していると姿勢測定系が誤認してしまいました。そして、誤認した回転を止める方向に姿勢変更系が作動した結果、「ひとみ」は実際にゆっくりとした回転を開始してしまったのです。しかし、「ひとみ」の姿勢測定系は、非常に脆弱な設定が災いして、この回転を検知して認識することが全くできませんでした。
(2) 姿勢変更系のデータ誤入力による異常回転の加速
ゆっくりと回転していることを全く認識できない「ひとみ」は、コマの原理により回転軸が地球の重力方向に立ち上がろうとする動きを続けます。そこで、このような動きを抑えるために、リアクションホイール(ホイール回転の加速時や減速時の反動力を利用)による姿勢制御が働くのですが、働いている内に限界(同じ回転方向にホイールをいつまでも加速し続けることは不可能)に達してしまいました。その結果、自動的に緊急対応モードとなった「ひとみ」は、ソーラーパネルを太陽に向けるため、姿勢変更系のパラメータデータに基づき、姿勢制御用スラスタ(小型のロケットエンジン)を噴射したのです。ところが、ソーラーパネルと光学ベンチの伸展に伴うパラメータデータの変更時にデータを誤入力した(絶対値に変更すべき数値をマイナス値のままとした)ことにより、姿勢制御用スラスタの噴射が「ひとみ」の回転を猛烈に加速した結果、遠心力により「ひとみ」はバラバラに分解してしまったのです。
4 「ひとみ」の姿勢測定系の機能設定に大きな問題
(1) 「ひとみ」の姿勢測定系は非常に脆弱
「ひとみ」の姿勢測定系は、スタートラッカ、粗太陽センサ、慣性基準装置という、長所と短所が異なる三種類のセンサーで構成していました。このような場合、通常は、センサーフュージョンの技術により、種類の異なるセンサーごとの長所と短所を補い合い、姿勢測定の信頼性を高めるとともに、センサーの誤作動に伴うリスクを軽減するところです。しかし、「ひとみ」の姿勢測定系は、 スタートラッカ(星空を見て姿勢を正確に実測するセンサー)が4分間ほど「フリーズ」しただけで、慣性基準装置(加速度を測るため、一定速度の回転による姿勢の変化は検知不可能)しか働かなくなってしまい、実際には回転していることを全く認識できない状態に陥ってしまったのです。
(2) 「ひとみ」の姿勢測定系が脆弱化した経緯
発注者側であるJAXAの「ひとみ」開発プロジェクトは、「衛星の姿勢制御の信頼性の確保」についての工学的知見や認識が乏しかったため、「ひとみ」の受注製造業者(NEC)に対して、「X線天体観測の精度と時間の確保」のみを強く要求し続けました。
このため、「ひとみ」の受注製造業者は、発注者側が要求する「X線天体観測の精度と時間の確保」を最優先せざるを得なくなり、姿勢測定系の各センサーの機能設定を次に記載のとおりとした結果、姿勢測定系が非常に脆弱化してしまったのです。
① 予備のスタートラッカに自動的に切り替わらない設定とした。その理由は、スタートラッカ切り替え時に発生する姿勢微変動を避け、安定姿勢でのX線天体観測時間を長く取るためであった。
② 異常と判断したスタートラッカを姿勢測定系から排除する設定とした。その理由は、観測精度の劣化を避け、安定姿勢でのX線天体観測時間を長く取るためであった。
③ 粗太陽センサを姿勢測定に用いない設定とした。その理由は、粗太陽センサの視野範囲の狭さから、不必要に緊急対応モードに移行した場合にX線天体観測が中断されるのを回避するためであった。
このようなことから、「ひとみ」開発プロジェクトは、「X線天体観測の精度と時間の確保」の部分最適化のみを追求した結果、「衛星の姿勢制御の信頼性の確保」を含めた全体最適化に失敗したと言えます。
(3) ボトムアップによる部分最適化ではなくトップダウンによる全体最適化が肝要
「ひとみ」開発プロジェクトの本来の役割は、プロジェクトの成功に向けて、「X線天体観測の精度と時間の確保」と「衛星の姿勢制御の信頼性の確保」の両立(つまり、全体最適化)を図ることであったはずです。
ところが、「ひとみ」開発プロジェクトは、「X線天体観測の精度と時間の確保」の最大化(つまり、部分最適化)のみをひたすら追求してしまいました。おそらく、「ひとみ」開発プロジェクトとしては、「衛星の姿勢制御の信頼性の確保」の最大化(つまり、部分最適化)については、この分野の工学的知見と実績に富む受注製造業者(NEC)が実現してくれるものと期待していたように推察されます。しかし、「X線天体観測の精度と時間の確保」と「衛星の姿勢制御の信頼性の確保」は、トレードオフ関係(彼方を立てれば此方が立たなくなるといった相反関係)にあります。それゆえ、「X線天体観測の精度と時間の確保」の最大化の追求が「衛星の姿勢制御の信頼性の確保」の最小化を招いてしまった結果、国際協力ミッションであった「ひとみ」が、ソフトウェアのバグとデータの誤入力により衛星軌道上でバラバラに分解してしまうという、信じ難いような事故に繋がったのです。
このことから、大規模なプロジェクトを運営して成功させるには、プロジェクト全体を全体最適化の視点で捉えることが極めて重要と言えます。これには、ボトムアップによる部分最適化を指向するのではなく、トップダウンによる全体最適化を指向するプロジェクト運営が欠かせないところとなります。
5 大成功した小惑星探査機 「初代はやぶさ」
(1) 「初代はやぶさ」の開発スキームは「ひとみ」と同じ
2010年に小惑星「イトカワ」からの奇跡の生還を遂げた「はやぶさ」ですが、2003年に文部科学省の宇宙科学研究所(同年にJAXAの宇宙科学研究所に改組)が打ち上げた小惑星探査機であり、その受注製造業者はNECでした。つまり、「はやぶさ」の開発スキーム(受発注者と発注方法)は、「ひとみ」と同じだったのです。しかし、「はやぶさ」は幾多の重大トラブルを乗り越えて奇跡の生還を遂げたのですが、「ひとみ」は些細なトラブルへの対処もできないままバラバラに分解してしまいました。ちなみに、「はやぶさ」のプロジェクトマネージャは宇宙航行システム工学が専門の工学博士であり、「ひとみ」のプロジェクトマネージャは高エネルギー宇宙物理学が専門の理学博士でした。
(2) 「はやぶさ」が遭遇した数多の重大トラブル
小惑星「イトカワ」への往路で大規模な太陽フレアに遭遇した「はやぶさ」は、太陽電池パネルが損傷して発電出力が低下したままとなった上に、姿勢制御用3軸リアクションホイールのX軸が故障してしまいました。この時の発電出力の低下に伴い、「はやぶさ」の帰還時期は、4年後から7年後への変更を余儀なくされています。
また、「イトカワ」に到着後は、「はやぶさ」の3軸リアクションホイールのY軸も故障した上に、姿勢制御用スラスタ(小型のロケットエンジン)の一つから燃料漏れが生じて、全スラスタの推力が大幅に低下してしまいました。これに加えて、地球との無線通信が2ヶ月近く途絶してしまったのです。
いずれも放置すれば「致命傷」となる重大なトラブルでしたが、事前の周到なリスクマネジメント(膨大な対応マニュアルを作成)が効を奏し、マニュアルでも想定外の重大トラブル発生に際しての見事なダメージコントロールにより、計画変更やプログラム修正等を行って度重なる困難を乗り越えることができたのです。このことが、奇跡の生還に繋がったのです。
6 「はやぶさ」と「ひとみ」の対比からの教訓
(1) トップダウンによるプロジェクトの全体最適化が肝要
我が国ではこれまで、プロジェクトを構成する各部分ごとにそれぞれ最適化すれば、最適化された各部分を纏め上げた全体が最適化されるといった、ボトムアップによる部分最適化の捉え方が基本であり主流であったように推察されます。しかし、「ひとみ」の失敗事例から明らかなとおり、プロジェクトを構成する各部分の間にトレードオフ関係があれば、前記の捉え方(ボトムアップによる部分最適化)による全体最適化は不可能です。このような場合には、つまり、プロジェクトを構成する各部分の間にトレードオフ関係がある場合には、プロジェクトの目的を見据えて、プロジェクトマネージャがトップダウンで全体最適化を図ることが必要不可欠となります。
ところで、「はやぶさ」のプロジェクトマネージャは、宇宙航行システム工学が専門の工学博士であり、衛星やロケットに関する豊富な知見と実績を有していたので、仕様発注方式(「はやぶさ」と「ひとみ」の発注方式の詳細は次の(2)に記載)であっても、小惑星探査機の目的を踏まえた全体最適化を図ることができました。つまり、「はやぶさ」のプロジェクトマネージャとして適任であったと言えます。
しかし、「ひとみ」のプロジェクトマネージャは、高エネルギー宇宙物理学が専門の理学博士であったため、衛星の工学的知見に乏しく、仕様発注方式による「衛星の姿勢制御の信頼性に係る詳細設計」を含めた全体最適化に適任であったとはとても言えません。仮に、性能発注方式による「衛星の姿勢制御の信頼性に係る要求性能」を含めた全体最適化であったならば、衛星の工学的知見に乏しいプロジェクトマネージャでも十分に対処できたと推察されるところです。
(2) 製造発注に先立つ設計仕様審査から要求性能審査へ
「ひとみ」の事例が示すように、今日では、ソフトウェアが衛星の安全性や信頼性などの機能と性能を大きく左右するようになっています。しかし、目には見えないソフトウェアの詳細設計の良し悪しについての審査を、これまでのメカニカルな詳細設計の良し悪しについての事前審査体制の中で行うことは極めて困難です。
JAXAの宇宙科学研究所では、その前身である東京大学宇宙航空研究所以来の伝統を引き継ぎ、打ち上げようとする衛星の製造発注に先立って常に設計審査会を開催して、メカニカルな詳細設計の良し悪しについての事前審査を行ってきたところです。このことから、JAXAの宇宙科学研究所が製造を発注する衛星は、「はやぶさ」や「ひとみ」を含めて、設計審査会をパスした詳細設計図面に基づく仕様発注方式によるものであると言えます。振り返ってみますと、東京大学宇宙航空研究所の時代では、衛星の機能と性能はメカニカルな詳細設計の良し悪しに大きく左右されていたため、製造発注に先立ち設計審査会の事前審査をパスすることは大きな意味を持っていました。しかし、今日では前記のとおり、衛星の機能と性能はソフトウェアに大きく左右されるようになっていますが、これまでどおりの設計審査会、つまり、メカニカルな詳細設計の良し悪しについての事前審査を行う設計審査会では、ソフトウェアのバグを発見することもできないのです。このことは、「ひとみ」がバラバラに分解してしまった事故に直接結びついています。つまり、「ひとみ」は、設計審査会の事前審査で衛星本体の安全性や信頼性が十分に確認できていないままに製造発注され、打ち上げられてしまったのです。
それゆえ、目に見えないソフトウェアが機能と性能を左右するようになった今日の衛星の発注では、実現したい機能と性能の要求要件を必要十分に規定した要求水準書を作成することにより、受注者側で設計と製造を一貫して行うプロセスを通じて、要求要件全ての実現を図っていくことが効果的かつ現実的です。つまり、これまでの仕様発注方式の踏襲ではなく、これからは性能発注方式を用いていくことが何よりも望まれるところです。具体的には、これからの設計審査会では、メカニカルな詳細設計の良し悪しの審査(つまり、詳細設計仕様の審査)ではなく、要求水準書に規定した要求要件の妥当性と要求要件に過不足がないか否かの審査(つまり、要求性能の審査)を行っていくことが望まれます。見方を変えれば、詳細設計仕様の審査から要求性能の審査へと変えていかない限り、ソフトウェアが機能と性能を左右する案件の審査は形骸化したままとなってしまうのです。「ひとみ」の分解事故の教訓から、設計審査会における審査内容の抜本的な見直しは喫緊の課題と言えます。
(3) 「はやぶさ」と「ひとみ」のリスクマネジメントとダメージコントロール
ここで、リスクマネジメントとは、トラブルの発生に備えた事前対応のことであり、リスクマネジメントの実施結果を踏まえてマニュアルを作成するのが通例です。
また、ダメージコントロールとは、トラブル発生時の事後対応のことであり、マニュアル化されていないトラブルにも迅速・的確に対処するには、事前のリスクマネジメントの徹底が肝要です。
さて、「ひとみ」についてですが、姿勢変更系パラメータデータ誤入力の主因は、何と、運用マニュアルの不備でした。このことから「ひとみ」では、トラブルの発生に備えたリスクマネジメントが完全に欠落していたのではないかと推察されますが、これこそ、ボトムアップによる部分最適化の捉え方でプロジェクトを運営したことによる最大の弊害と言えます。これでは、トラブル発生時の迅速・的確なダメージコントロールなどできるはずもなく、実際に「ひとみ」は、些細なトラブルへの対処すらできないままバラバラに分解してしまったのです。
他方、「はやぶさ」についてですが、トップダウンによる全体最適化の捉え方でプロジェクトを運営したことにより、事前に周到かつ徹底したリスクマネジメントを行って膨大なマニュアルを作成していました。このことが功を奏して、マニュアルでも想定外の幾多の重大トラブルの発生に際して、迅速・的確なダメージコントロールで対処することができたので、奇跡の生還に繋がったのです。
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